サン・ファン・バウティスタ ミュージアム 宮城県慶長使節船 ミュージアム/石巻市
サン・ファン・バウティスタ号(Sat Juan Bautista=洗礼者 聖ヨハネの意味)は、仙台藩主伊達政宗により建造され、慶長18年(西暦1613年)藩士・支倉常長ら一行180名を乗せ月の浦(現石巻市)から出帆した黒船です。 この船は、日本で建造された木造洋式帆船として初めて太平洋を二往復し、その造船技術は当時のトップレベルと評されています。
 サン・ファン・バウティスタ ミュージアムでは、その当時の船を復元した物を係留展示しています。
サンファンバウティスタ公園は、JR石巻駅からシャトルバスで30分・タクシーで20分のところにあります。石巻市・渡波。
イタリア・ローマのバチカン市国のサン・ピエトロ大寺院を望む。 ローマ法王パウロ五世と謁見する様子。(松島:みちのく伊達政宗歴史館のろう人形)
支倉常長像  1615年10月、サン・ピエトロ大寺院広場に祝砲が響く中、堂々と軽騎兵に伴われた馬上の常長が行く。30年前に天正少年使節が来たことがあるが「サムライ」を見るのは初めてのローマっ子を沸かせた。
 企業で言えば部長クラス(※1)の常長が全権大使に抜擢されたのは一つには彼の外交手腕が買われたもの。彼の能力は大いに発揮され、ローマ法王庁は丁重に扱った。
 伊達政宗は、奥州王と名乗り徳川幕府に失政あれば次の将軍となる実力者と(※2)、メキシコとの通商を得るべく宗主国スペインへのとりなしを願い出たのである。しかし、ローマ市議会は常長にローマ市民権を与えはしたものの、通商の交渉は実らなかった。日本国内ではキリシタン迫害が進み、これ以上の交渉もままならず失意のまま常長は帰国の途に着く。1620年フィリピン経由で仙台に帰るが日本はキリシタンの迫害が厳しくなり、洗礼を受けていた常長の身分は厳しいものに…、二年後病死し、その後使節のことさえ闇の中に葬られ、再び日の目を見るのは明治の代まで待たなければならなかった。

 (※1.  万が一幕府から咎められた場合高い立場の人間では言い訳に困るとの政治的配慮も有る)
 (※2. 交渉の一部始終はオランダを通じて徳川幕府に筒抜けだったとの学説があり、家康は知らぬ振りを通したという)
 
フィギアヘッド。船首像は船の守護神であり伊達政宗が好んだ「阿吽(あうん)の龍」が付けられた。 船尾は、優雅なガレリア船の特徴を見せる。伊達家の紋章である九曜紋が描かれている。
あの、タイタニックではないが常長は何を夢見たであろうか? 船首側の様子。
船尾側の様子。 船尾楼甲板には、常長とスペイン人ビスカイノの部屋がある。
グレートキャビン。船長であるルイス・ソテロの部屋。重要会議の模様が再現されている。 サン・ファン・バウティスタは軍艦ではないが、海賊の多かった当時は大砲等が積んであった。
上甲板の様子。ここで180人がごろ寝していたという。 日本人乗組員の食事風景。